コンプレックスの原点と障害
ではなぜ英語に対するコンプレックスはこれほど根深いものになっていってしまったのでしょう。そしてそれがどういう障害を及ぼすのでしょう。
- 私なりに思うのは次のような要因ではなかろうかと思うんです:
- 英語は義務教育とその後の教育の一環で日本人が学び使えるようになっている「はずだった」ものという意識
- 教育のカリキュラムの一つに組み込まれてしまったため、英語の習得は「勉強」の一部として頭の中でカテゴライズされてしまう。
- 戦後、アメリカ(GHQ)によって骨抜きにされてしまった日本の文化背景の中で生じてきた欧米人に対する卑屈な劣等感
- 外見的な違いによる欧米人種に対するあこがれ・羨望
- 最初の二つを裏付ける話があります。私の昔いた会社では当時海外への工場展開を盛んにやっていました。現場のSupervisorとして赴くために日本の工場の主任クラスの人たちは現地の言葉を学ぶ必要がありました。英語ではなく、タイ語であったり他の国の言葉であったりします
- 決して英語がしゃべれるわけでもなく、高校時代にも勉強好きではなかったであろう人たちもいます。しかし驚くようなスピードで彼らはうまくなっていきます。その後、現地に私が赴いたときにも彼らはたいした苦労もなく現地の言葉でCommunicateしています。速い上達スピードです。
- なぜだろう、と思いました。そして思ったことが、「勉強」の一つというNegativeな先入観なく「必要なTool」としての取り組み、そして初めて習う言語だという苦手意識のない取り組みが功を奏したのではないかということです。
- また、習得のアプローチも違います。SとVとOでこうなってああなってといじめられた学校の英語と違いあくまでもVerbalなInput/Outputが主体です。
- 最後の二つの要因はもっとChronicです。こういうPerceptionは実際のCommunicationの現場では「気後れ」となって現れ、我々のような仕事でそれに接するものを悩ませます。事実、私の中にもこれはあるようです。私の場合、アジアの人々とはすぐにうち解け、欧米の人とはなかなかそうなれないという形をとって出てきているようです。
- 注)ただしこのアジアと欧米の違いはもう一つの大きな要因があります。これについては「外資」にてお話しします。